ミッキー吉野&タケカワユキヒデ Special Talk ⑦

はじめに

ゴダイゴは1976年4月1日、シングル「僕のサラダガール」でデビュー。
78年に「ガンダーラ」、「モンキー・マジック」、79年に「ビューティフル・ネーム」、「銀河鉄道999」、「ホーリー&ブライト」などヒット曲を放つと、1980年には海外に挑み、ネパール王立競技場で6万人を集めた野外コンサート、ロサンゼルスの市政200年祭、ロックバンドとして初の中国公演(第一次中日友好音楽祭)を成功させた。85年に活動を休止したものの、99年の期限付き再結成を経て、2006年に恒久的再始動を決定、今日に至るまで活動してきた。
2026年のデビュー50周年を前に、ミッキー吉野、タケカワユキヒデの両氏に、74年の出会いから50年の歴史、そして未来を語ってもらった。

第7回

――1979年10月には、日本テレビ系ドラマ『西遊記Ⅱ』の主題歌となったシングル「ホーリー&ブライト」、アルバムはオリコン1位を獲得した初のライブ盤『マジック・カプセル』をリリース。12月は日本武道館で公演して、大晦日の第21回日本レコード大賞で「ビューティフル・ネーム」が金賞を受賞し、初出場した第30回NHK紅白歌合戦でも演奏されました。快進撃を続けて、翌80年はさらに大きな動きが生まれます。「新しい体験と再発見の旅」という新たなテーマを掲げて世界中を旅することになりました。

タケカワ:旅立ったのは2月の初めでしたね。ネパールに1週間滞在して、そこからアフリカに向かいました。ギリシャを周って、日本に帰ってくるまで全部で3週間ぐらいでした。でも実は、僕らが最初に降り立った国はタイのバンコクだったんです。あの頃の飛行機というのは、燃料が続かないのでそんなに長い距離を飛べないんです。やたらといろんなところに停まるんですよね。

――トランジットは各駅停車のような感じでした。

タケカワ:このバンコクが僕にとっては初めての海外だったんです。それまではパスポートすら持ったことがなかった。海外が初めてだったメンバーは僕だけじゃなかったかな。浅野さんはその前年にハワイに行っていましたからね。完全に私だけで。いや、本当にワクワクしましたけどね。バンコクでは、空港からホテルへ行くバスの中から外を見たら、道沿いの縁側で涼んでいる人がいたりして、まるで昔の日本のような風景に見えましたね。

――そもそも、ゴダイゴがネパールでコンサートをやることになったのはどのような経緯からだったのでしょうか。

ミッキー:プロデューサー(ジョニー野村氏)がヒマラヤに行ってきて、その時に見た風景を絶対にゴダイゴのメンバーに見せたいっていう気持ちがあったんです。それで、もしもコンサートができたら面白いかなという話をしてきたんです。でも、何かはっきりしたことって実はないんですよ。地球上で最も標高の高いところでライブがやりたいよねとか、世界中で誰もそんなところでやってないだろうし、とか。国際的な友好を図りたい、みたいな何か大きなテーマがあったわけでもなくて、それぐらいシンプルな話だったんです。

タケカワ:ネパールに飛行機で降りる時は、レンガ工場の煙突から煙が出ていたのが印象に残っていますね。ずっと出ているんじゃなくて、レンガを焼いている時に、いろんなところからポッ、ポッて煙が出ているんですよ。到着した後も、象使いといっぱいの葉っぱを背中に乗せた象が歩いている道を、バスが並走していくんです。もう完全におとぎ話というか絵本の中の世界のようで…すごかったですね。

――当時の映像の記録が残っていますが、映像作品としてワールドツアーを撮影する計画もあったんでしょうか。

ミッキー:一緒に映画のプロデューサーもいましたね。東京映像社の大滝勝さんという方で、エベレスト登頂で有名な三浦雄一郎さんの映像を撮ったり、石原プロの映画『黒部の太陽』にも携わっていました。彼がちょうどシルクロードの映像を撮りたいっていうのと、それならゴダイゴでやったら面白いんじゃないか、と言ってくれていたのもありました。でも今振り返ってみると、ネパール行きはわけのわからないうちに急にいろいろと始まっていったという印象なんです。

タケカワ:だって、ネパールは本来、シルクロードとは関係ないですからね(笑)。

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