ミッキー吉野&タケカワユキヒデ Special Talk ⑨

はじめに

ゴダイゴは1976年4月1日、シングル「僕のサラダガール」でデビュー。
78年に「ガンダーラ」、「モンキー・マジック」、79年に「ビューティフル・ネーム」、「銀河鉄道999」、「ホーリー&ブライト」などヒット曲を放つと、1980年には海外に挑み、ネパール王立競技場で6万人を集めた野外コンサート、ロサンゼルスの市政200年祭、ロックバンドとして初の中国公演(第一次中日友好音楽祭)を成功させた。85年に活動を休止したものの、99年の期限付き再結成を経て、2006年に恒久的再始動を決定、今日に至るまで活動してきた。
2026年のデビュー50周年を前に、ミッキー吉野、タケカワユキヒデの両氏に、74年の出会いから50年の歴史、そして未来を語ってもらった。

第9回

――1980年の3月にスティーヴさんがゴダイゴから脱退したあとは、代役として富倉安生さんがベースを担当しました。ゴダイゴの国内ツアー、タケカワさんの2枚目のソロ・アルバム『Lyena』のレコーディングも開始されていた中で、6月からはイラン(テヘラン、イスファハン)に撮影のために出かけました。

タケカワ:イランは、僕と、ミッキーと浅野の3人だけで行きました。当時の政治情勢が不安定だったので、アメリカ人のトミーが入国するのは難しそうだとなりました。でも僕らがそもそも行けるのかどうかもなかなか決まらなかった。レコーディングの合間に先行して現地に行っていた撮影隊の人たちから、テレックスでメッセージが届くんですよ。「今は危ないからちょっとやめておいたほうがいい」とかね。実は2回ぐらい中止にしようということにもなったんです。

ミッキー:本当はアフガニスタンとかにも行きたかったんですけど、やはり怖いなということであきらめました。それも結局、政治的な事情ですね。そうこうしているうちに、中国やアメリカに行けるような話が出てきました。まさに湧いて出た、という感じでしたね。また、海外に進出するためにはちゃんとしたメンバーとしてベーシストがいないといけないなということになったんです。

――しばらく4人体制だったゴダイゴに、正式な後任のベーシストとして吉澤洋治さんが8月に加入しました。

ミッキー:ICU(国際基督教大)のジャズ研究部のOBだったプロデューサーを通じて一緒にセッションをしたことがあった吉澤のことを思い出したんです。彼は本来ギタリストなのに、僕と一緒にセッションをした時にはなぜかベースを弾いた。そんなことがあって、それを覚えていたんです。

タケカワ:4月に渋谷パルコ西武劇場でミュージカル「ヘアー」の公演があって、僕が音楽監督を務めていました。その時に吉澤はギタリストとして参加していました。

ミッキー:実はメンバーには、吉澤が加入することを言っていなかったんです。ある日、急な衣装合わせが入って、その時に吉澤を初めて見たトミーのひと言が最高で、「あいつは誰なんだ?」って(笑)。

タケカワ:「カトマンズ」を演奏したベンザエースのCM撮影の時だよね。その時に初めて吉澤がベースを持っているのを見ました(笑)。

――そして80年の10月11日、ロサンゼルスのシヴィック・センターで開催された市政200周年祭「ストリート・シーン」のステージにゴダイゴが出演。

ミッキー:当時、L.A.Recordsの社長でプロデューサーのスティーブ・ゴールドが来日したことがあったんです。彼がアメリカにゴダイゴの音源を持ち帰って、「ASIATIC FEVER」(アルバム「西遊記」収録)をシングルにしたいっていう話まで上がっていたんです。

タケカワ:日本コロムビアと合弁会社を作って、ゴダイゴのレコードをアメリカで発売するという話が進行していたんですけど、残念ながら実現には至りませんでした。本来はそのお披露目としてロサンゼルスでライブをやるっていう話だったんです。

ミッキー:もしその構想がうまくいっていたら、ゴダイゴとオズモンズとファンカデリックとブラッド・スウェット・アンド・ティアーズとウォー…これらのグループがレーベルメイトになっていたかもしれなかった。

タケカワ:アメリカでテレビ番組をやるぞ、みたいな話もありました。司会がマイケル・ジャクソンとダニー・オズモンドとタケカワだって言われて。おいおいおい、そんなことまでやらせるんじゃないよって思いましたね(笑)。

(第10回に続く)

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