ミッキー吉野&タケカワユキヒデ Special Talk ⑧
はじめに
ゴダイゴは1976年4月1日、シングル「僕のサラダガール」でデビュー。
78年に「ガンダーラ」、「モンキー・マジック」、79年に「ビューティフル・ネーム」、「銀河鉄道999」、「ホーリー&ブライト」などヒット曲を放つと、1980年には海外に挑み、ネパール王立競技場で6万人を集めた野外コンサート、ロサンゼルスの市政200年祭、ロックバンドとして初の中国公演(第一次中日友好音楽祭)を成功させた。85年に活動を休止したものの、99年の期限付き再結成を経て、2006年に恒久的再始動を決定、今日に至るまで活動してきた。
2026年のデビュー50周年を前に、ミッキー吉野、タケカワユキヒデの両氏に、74年の出会いから50年の歴史、そして未来を語ってもらった。

第8回
――今思えば、1979年は本当に驚きです。コンサートや「ザ・ベストテン」への出演などゴダイゴの露出が一挙に増え、人気が最高潮に達していた中で、翌年のワールドツアーの案まで練られていました。メンバーの皆さんもスタッフの皆さんも本当に忙しかったと思いますが、勢いがあるからこそ、可能性が広がっていったんだと思います。
タケカワ:79年の末には、「ポートピア」も「リターン・トゥ・アフリカ」も曲は書けていましたね。「カトマンズ」も翌年1月にはレコーディングまで終わっていたんですよ。何しろ現地(ネパール)に行く前に曲は出来ていました。
――「カトマンズ」は壮大なバラード。
ミッキー:僕はアレンジャーの立場として、ある意味ではこじつけるような役なんです(笑)。 「ガンダーラ」で表現したのは、魂を求めて長い道のりを旅する求道者たちの道が一本につながっていくようなイメージでした。「カトマンズ」は、カトマンズを目指してみんなで集まろう。四方八方のあらゆるところから旅人が集まってくる聖地のような場所の象徴としてのイメージを、音楽で表現しているんです。
――80年9月にシングルでリリースされた「(カミング・トゥゲザー・イン) カトマンズ」は、レコードジャケットには新たに加入した吉澤洋治さんが写っていますが、レコーディングではスティーヴ・フォックスさんがベースを弾いていました。スティーヴさんの脱退は突然だったんでしょうか。
タケカワ:スティーヴがゴダイゴを抜けるっていう話を最初に聞いたのは…たしか「リターン・トゥ・アフリカ」のレコーディングの時だったと思います。彼が脱退するということを知りながら紅白やレコード大賞に臨んだはずはないので、1979年の末ではないと思うんですよ。
ミッキー:年初の休みで僕はハワイに旅行しているんです。スティーヴはテキサスのお母さんのところに行って、日本に帰って来てから聞いたんじゃなかったかな。
――スティーヴさんの脱退の意思を聞いた時は…
ミッキー:スティーヴはクリスチャンですが、僕は音楽というものは世界中のあらゆる宗教をカバーして、含んでいるものだと考えていたし、音楽を通じて活動を続けた方がもっと世界中の色々な人とも関われるんじゃないか。そんな話をした記憶がありますね。でも、神学校に通って牧師になるっていうスティーヴの決意は固かったですね。早い段階で、週刊誌が情報を嗅ぎつけているから気を付けろよ、なんて話をしたのを憶えています。
タケカワ:辞めることは、日本コロムビアのトイレで聞いたんです。そんなところぐらいしか、誰にも聞かれない確実な場所がなかったんです。
――スティーヴさんの脱退は多くのゴダイゴ・ファンにとっても大きな衝撃でした。
ミッキー:CMもたくさん決まっていたので、実はスティーヴが脱退することになった、ということを僕も色々なところに直接説明をしに行きました。何とか、みんなで前向きに送り出そうということで了承をもらって。実際のCMでは僕とタケ以外は誰だかわからないような衣装で出ることになったり、完全に僕とタケの二人だけでのCMになったりしましたね。実際にはそこからは色々と実務的には大変でした。
タケカワ:ネパールも含めて、世界中の旅はスティーヴが辞める前提で行ってるんですよね。
ミッキー:そんな状況の中でワールドツアーに突入していったので、本当におとぎの国に行ったような感覚なんです。じゃあ、どこでお別れしようかということで、80年の3月にイスタンブールからニューヨークに飛んで、メンバーとスティーヴは空港で別れたんです。そのシーンも実際にフィルムで撮影されています。
(第9回に続く)

