ミッキー吉野&タケカワユキヒデ Special Talk ⑤
はじめに
ゴダイゴは1976年4月1日、シングル「僕のサラダガール」でデビュー。
78年に「ガンダーラ」、「モンキー・マジック」、79年に「ビューティフル・ネーム」、「銀河鉄道999」、「ホーリー&ブライト」などヒット曲を放つと、1980年には海外に挑み、ネパール王立競技場で6万人を集めた野外コンサート、ロックバンドとして初の中国公演(第一次中日友好音楽祭)を成功させた。85年に活動を休止したものの、99年の期限付き再結成を経て、2006年に恒久的再始動を決定、今日に至るまで活動してきた。
2026年のデビュー50周年を前に、ミッキー吉野、タケカワユキヒデの両氏に、74年の出会いから50年の歴史、そして未来を語ってもらった。

第5回
――ゴダイゴ結成以降のセッション・ワークについては、すさまじい数をこなされていたと思います。山内テツさん、エディ藩さん、Charさん、茶木みやこさん、ちあきなおみさんらは、アルバム単位でゴダイゴがレコーディングで参加していました。1979年春に制作されたアグネス・チャンさんのアルバム『不思議の国のアグネス』は、演奏だけでなく、全曲すべて作詞が奈良橋陽子さん、作曲がタケカワさん、編曲がミッキーさんというゴダイゴのオリジナル・アルバムに匹敵するラインナップでした。
ミッキー:ほかのアーティストのレコーディングセッション、CMソング、映画やテレビ番組のサウンドトラックとか、バンドを維持するためにも、仕事として成り立たせようという思いで取り組んでいました。加えて、世間に対して、自分たちのサウンドに馴れてもらおうという狙いもあったので、可能な限りは何にでも入り込んでいくような意識で取り組んでいました。
――デビュー時から続けたその努力が実になって、アルバム「西遊記」から大ヒットが生まれたことも追い風となり、ついに、自分たちのペースで作りたい作品を作りたいように作れる状況になりました。
ミッキー:そういった状況が整って作られた作品には、パワーを込められるんですよね。たとえば「ビューティフル・ネーム」にしても、国際児童年のテーマソングで、1年間NHKでスポットが流れるということも事前に決まっていました。作品の対象になるテーマもとても大きかったんです。それだけスケールの大きなテーマが来ると、例えば世界情勢はどうなっていくのか、20年後の世界は一体どうなっているだろうとか…僕の中ではそこまで考えて、未来に向けたイメージを作品に込めるような意識は強くありました。
――「ビューティフル・ネーム」は最近ではEXILE B HAPPYであったり、様々なアーティストにカバーされていて、ずっとパワーを保ち続けています。「ガンダーラ」にしても、「銀河鉄道999」にしても、それぞれが当時のヒットというカテゴリーをはるかに超えて、日本が誇るスタンダードナンバーとして多くの方々に親しまれています。50年近くも前の曲が世代を超えて愛され続けていることについてはどう思われていますか。
タケカワ:いやいやいやいや…もう僕にとってはとにかく幸せです、ということだけですね。よく言うんですけど、ミッキーは未来も見据えて作品をつくっていたと思うんですけど、当時の僕は「今」しか見ていなかった(笑)。
――タケカワさんはゴダイゴ作品も含めてものすごい数の作曲を担当されていました。怒涛の締め切り攻勢だったことがうかがえます。その中で、ヒット曲が量産されていくきっかけとして、「ガンダーラ」で日本語詞を取り入れたこともあるのかと思えます。
タケカワ:「ガンダーラ」のシングル用の日本語の歌詞については、どういう風に歌ったら良いのかということを非常に悩みました。もちろん、今ではもう皆さんに親しんでいただいているので良いのですが、日本語詞版には、最初にアルバム用にレコーディングした英語詞での「ガンダーラ」で表現できた魅力の半分も伝えられなかったのではないか、という気持ちが僕の中にあったんです。英語で作った曲に、日本語をどうやって合わせるのが正解なのか、果たしてこれでいいのかどうか…というのが甚だ疑問だったんです。
ミッキー:「ガンダーラ」は僕も自分自身で歌ってみてわかったことがあったんです。メロディの節回しとかも難しいんですよ。でも、ちゃんと冷静に見れば、タケの歌が持つ表現力には、それまで他の人たちがやっていた日本語の歌い方にはなかった独特な個性があったと思います。結局そういうものが時代を超えて残っていくんだろうと思うんです。そして、あれは日本語だからこその表現だということもわかったんです。タケは悩んだって言っていましたけど、でも、そこなんですよね。それこそがまさに表現ということなのだと思います。
(Special Talk ⑥は10月18日掲載予定)