ミッキー吉野&タケカワユキヒデ Special Talk ④
はじめに
ゴダイゴは1976年4月1日、シングル「僕のサラダガール」でデビュー。
78年に「ガンダーラ」、「モンキー・マジック」、79年に「ビューティフル・ネーム」、「銀河鉄道999」、「ホーリー&ブライト」などヒット曲を放つと、1980年には海外に挑み、ネパール王立競技場で6万人を集めた野外コンサート、ロックバンドとして初の中国公演(第一次中日友好音楽祭)を成功させた。85年に活動を休止したものの、99年の期限付き再結成を経て、2006年に恒久的再始動を決定、今日に至るまで活動してきた。
2026年のデビュー50周年を前に、ミッキー吉野、タケカワユキヒデの両氏に、74年の出会いから50年の歴史、そして未来を語ってもらった。

第4回
――1977年3月に新しいドラマーのトミー・スナイダーさんをアメリカから呼び寄せて、同年11月にリリースしたセカンドアルバム『DEAD END』は、バンドとしての実質的なファーストアルバムとも評される洗練されたサウンドが確立されていました。ミッキーさんは、音楽、ロックバンドは特に「気持ちのどこかで社会とか常識に対して反発するところがないと力が出てこないと思うんです」と言われていましたが、当時の社会的な世相を反映したメッセージが込められていた『DEAD END』はまさにそんな位置付けだったのでないかと思います。
ミッキー:かつてのロックンロールの黄金時代がそうでした。社会とか体制に対しての疑問のようなものがあって、それを抱えながら演奏にパワーが湧き出てくるというようなイメージですね。ゴダイゴ結成から50年経って、やっぱり改めて今、そこかな、って思っています。とは言っても、今の僕らの不満を音楽に込めるということではないんです。皆さんが今の世間を見回してみて、矛盾していたり、おかしいと感じるところがいっぱいあると思うんです。静かに不満が広がっているというか。そんな中で僕たちにできること…音楽っていうものは、いいものを作って、それを出せばいいと。
――音楽によって、時代にひとつの楔を打ち込む。
ミッキー:あとは、それを演奏していって、皆さんの意識がどこかで変わってくれればいいなと思っています。自分たちが良いと思うものを意識しながら演奏して、歌って、何かのお役に立てたらいいなと。それがきっと、50年続けてきたバンドのやるべき仕事というか、ひとつの答えなのではないかなと感じています。
――『DEAD END』の頃のゴダイゴは、もちろんその前もですが、メインのバンド活動と並行して、数多くのセッション・ワーク、映画、テレビ番組、ドラマ、CMソングなどの制作活動も頻繁に行っていました。多種多様な活動内容の広さで培ってきた成果が、成功につながる要素として大きかったような印象があるのですが。
タケカワ:いや、多種多様の音楽を体の中に取り入れたのは、ゴダイゴが結成されてからの活動で培ってきたというよりは、それより前の時代…僕が小さい時から周りに色々な音楽があったということが大きいと思いますね。アメリカをはじめとして色々な国の曲がたくさん流れてきたんです。エキゾチックなものも含めてラテンからクラシックやジャズやポップスがあってという形でずっと来ていました。そういう意味では、音楽の全部が僕を幸せにしてくれていたんです。
――目指すところは、自分たちを育ててくれた音楽を、今度は自分たちで作って、皆さんを幸せにする。
タケカワ:さっきミッキーが、皆さんが喜んでくだされば、お役に立てればということでやっているんだって言っていましたけど、まさにそれをずっと。幸せになれたなら、自分にとってそれはもうただの音楽ではない。耳から入ってきただけの音楽で、聴いた人が本当に幸せになってしまう…という、魔法のようなことをやっぱりやりたいなと考えていました。自分にはそれができるんじゃないかって、そう思っていたんです。
――ミッキーさんとタケカワさんの、聴いている人を幸せにしたい思いが、1978年10月にリリースされたサードアルバム『西遊記』でついに結実します。魔法が日本中を席巻することになったのです。劇伴を担当した日本テレビ系ドラマ『西遊記』の人気と相まって、「ガンダーラ」「モンキー・マジック」が大ヒットしました。
ミッキー:ゴダイゴが大ブレイクした78~79年というのは、とにかくやりたい放題できたことが大きかったですね。『西遊記』のアルバムにしても何の制限や邪魔もなく、それはもう好き勝手にできました(笑)。僕はまたそこでひとつ気付くんです。やりたい放題できる環境を確保するということが、それこそ作品を作るうえでとても大事なことだったんです。
(Special Talk ⑤は10月4日掲載予定)