ミッキー吉野&タケカワユキヒデ Special Talk ③

はじめに

ゴダイゴは1976年4月1日、シングル「僕のサラダガール」でデビュー。
78年に「ガンダーラ」、「モンキー・マジック」、79年に「ビューティフル・ネーム」、「銀河鉄道999」、「ホーリー&ブライト」などヒット曲を放つと、1980年には海外に挑み、ネパール王立競技場で6万人を集めた野外コンサート、ロックバンドとして初の中国公演(第一次中日友好音楽祭)を成功させた。85年に活動を休止したものの、99年の期限付き再結成を経て、2006年に恒久的再始動を決定、今日に至るまで活動してきた。
2026年のデビュー50周年を前に、ミッキー吉野、タケカワユキヒデの両氏に、74年の出会いから50年の歴史、そして未来を語ってもらった。

第3回

――1975年は、1月にリリースしたタケカワさんの『走り去るロマン』のプロモーションのため、ミッキーさんとタケカワさんで全国各地を回っていました。そこでおふたりの親交や結束が深まっていったことも、ゴダイゴ結成に至る重要なファクターと言えそうです。

ミッキー:タケをひとりでプロモーションに行かせたら何を言いだすかわからないので、一緒に付いて行ってほしい。そんなことを当時のスタッフやプロデューサーから言われたんです。

――まだまだメディアからのミュージシャンへのリスペクトなどは足りなかった時代。プロモーションではいろいろなことがあったような気がします。

ミッキー:特に最高だったのは、とあるFM局に行った時の話。現場スタッフの人が不在だったのか、次長にあたるお偉いさんが直々に僕らに会いに来てくれたのまでは良かったんですよ。でも、そこで「これは一体どういう音楽なんだ?」って訊かれて、タケが「聴いてもらえればわかります。」って答えたら…

タケカワ:ものすごい勢いで怒り出しちゃってね(笑)。実際のところ、僕もさすがにそこまで失礼な言い方はしていないんですよ。FM局なんだから、自分たちの会社で放送する音楽の内容について、事前に資料に目を通すなり作品を聴くなりする、ということがあちらの仕事として当然のことなんじゃないかと純粋に思っていたんです。

ミッキー:本当だったら、新しいものを何でも聴かなくてはいけない立場のはずですよね。もちろん今なら、インターネットで事前に相手のことをある程度調べてから初めての人に会うのが常識だと思うんですけど、まあ、あの時代はいろいろと理不尽なことがありました。いろいろなところで何度も「なんで英語でやるの?」って訊かれて、困っているタケもそばで見ていましたし。

タケカワ:作品をきちんと聴いてくれさえすれば、他の人たちとの音楽とは全然違うということも理解してもらえるはずだと当然こちらは思っているんですけど、実際の取材には音楽とは何も関係ないような方たちが来るわけなんです。もちろん音楽誌できちんと記事を書いてくれた方もいましたけれども、最初は驚きましたね。

――「なんで英語でやるの?」と言われたことについては、前にもちょっと出てきましたが、当時の日本のロック界においては日本語なのか英語なのかという論争が根強かったし、想像以上に英語で音楽を表現することへの風当たりが強かったことがうかがえます。「日本語のロック」というと、はっぴいえんど(細野晴臣、大瀧詠一、鈴木茂、松本隆)が筆頭にあがることが多かったですね。

ミッキー:岡林信康さんと、はっぴいえんどが最初に演奏した時、僕はザ・ゴールデン・カップスで一緒でした。それ以前に、細野さんと親交が深かった小坂忠さんや柳田ヒロさんがメンバーだったザ・フローラルともよく一緒になっていたので、はっぴいえんどの周辺の方たちとはよく話していましたね。細野さんとあまり直接お話したことはないんですが…。坂本龍一さんとは、タケが昔から知り合いだったので、会っていますね。

タケカワ:僕は友達に薦められて、はっぴいえんどを聴いた記憶があります。アメリカにボブ・ディランがいたように、彼らがやったことは素晴らしいと思います。

――1975年6月に、FM東京の『DENON LIVE CONCERT』で、タケカワユキヒデ&ミッキー吉野グループと、小坂忠&ティン・パン・アレーが共演しています。細野さん、鈴木茂さんがいました。

ミッキー:僕がカップスを脱けた後にキーボードで入ったジョン山崎も参加していましたね。のちにスティーヴは同じクリスチャンとして、小坂忠さんと仲良くなっていったんです。

タケカワ:いろいろなつながり方があって面白いですよね。

――作詞家として大成功した松本隆さんは、1980年にゴダイゴがリリースしたシングル「(カミング・トゥゲザー・イン) カトマンズ」の日本語詞を担当していました。

(Special Talk ④ は9月20日掲載予定)

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